奇妙な噂
奇妙な噂が流れている。その噂が良い噂なのか、それとも悪い噂なのかを判断するのは非常に難しいことだとは思うが、その噂の源流を辿れば辿るほど……そこには危険な気配が立ち込めてくるような気がしてならない。
そう、この噂は天聖暦1044年神滅の月……漆黒の闇を切り裂いた星が大地へと衝突した日からじわじわと起き始めていた変化を象徴するような噂だったように思えてしょうがない。
そして、それは春の芽吹きを迎える珀錫の月の下旬に顕著に異変として「解放都市同盟」に伝えられることとなる。
「妖魔軍の侵攻停止」
雪の中でさえ獣を使役することで圧倒的な機動力を持って北方の貴族を傭兵都市リオンまで後退させた妖魔軍の西方および南方への侵攻が突然停止したのである。
それは圧倒的優位に立っているはずの妖魔軍の行動としてはあまりにも不可解な行動としか思えず、逆に疑心の芽を解放都市同盟の者たちにもたらすほどだった。
もちろん、その奇妙な出来事であったとしても人類種にとっては攻勢の機会であり、打って出るべきだという意見も出なかったわけではなかったが、この機会に疲弊しきっていた傭兵都市リオンへの物資補給を含めた救援が最優先とされた。
しかし、海路を利用してリオンへ物資を供給しようとした際には別の課題が持ち上がることなり、その成果は十分とはいえないものとなってしまった。
普段ならば船団を組んでいれば襲ってくるとは思えないような海獣たちにより幾つかの船が沈められたのである。
「明らかに海の獣たちが凶暴化している」
船乗りたちはそのように告げ、できる限り陸沿いの海路を持っての補給ルートへの変更が余儀なくされることとなたった。
突然の獣たちの凶暴化は海だけではなく、陸においても顕著なものだった。まるで、世界における暗黙のルールが壊れてしまったのではないかと思われるほどに奇妙な出来事であり、何か裏があるのではないかと思わせるほどに不気味な雰囲気を漂わせていた。
この奇妙な出来事がガウディ内でも顕著となり……闘技場において魔法や薬によって操られて戦いの見世物となっていた獣たちがその飼い主たちに襲い掛かるという事件が起きたあたりから、その噂には多くの尾ひれがついて流布することとなった。
「どうも、飼いならしていたはずの獣の使役がうまくいかずに多大なる被害が妖魔軍の中に出ているらしい」
その噂がまるで事実であるかのように人々の口に上るようになり、本来ならば信じることなどできようはずのないそのような奇妙な出来事をについて、最後まで口を閉じて信じないようにしていた者たち……妖魔軍との直接戦う立場にある者たちの間でさえ、この頃はまことしやかに囁かれるようになっていた。
実は、一番最初に、その奇妙な噂を肯定したのは、ガウディ近郊を守護する騎士たちと港を行き来するものたちであった。
先にも述べたように、海を行く者や陸を行く者たちは、すでに被害にあっているものが多く、彼らは常々獣たちの活動が活発になっており、海を渡るものたちは昨年までは考えられないほど積極的に襲い掛かってくる海獣たちに辟易し、また、街道や都市を守護するものたちは、これまで森などの人が住まない場所でしかみることがなかった幻獣の類が積極的に人を襲い始めていることを体感していたのだから。
もちろん、大陸はもともと妖魔の活発な活動により街道を行く場合にも細心の注意が必要であったが、最近は妖魔種よりも獣の方が多く見られるようになっているらしい。
のみならず……同時に、怪奇現象と言わざるを得ないような出来事が頻繁に起こるようになっていた。たとえば、突如ゆがんだ景色の中に城が現れたり、小さな集落が村ごと消えるというような真実なのかもわからないような噂まで、ガウディにおいてはまことしやかに囁かれるようになっているのだ。
それは覚えている者がいるのであれば、天聖暦1028年、神滅の月28日の出来事を思い出すのではないだろうか。そして覚えているのであれば悪寒が全身を駆け巡ることだろう。
確かに、間違いなく、確実に、疑う余地もなく……世界が狂い始めている。それはこれまで千年の時をかけて迷いながらも前へと歩いてきたという事実を嘲笑うかのような狂気の成せる業であり、過去への逆行のように感じられたのかもしれない
。「……隠れていた真実が少しだけ顔を出しただけですよ。いや、真実を隠していた包みが剥ぎ取られたという方が正解なのかもしれませんね」
隠されていた真実たちは、突然世にさらけ出されたことに戸惑いつつ……しかし、この世界へと着実に浸透しはじめていたのではないだろうか。
「……幻といわれていた獣たちも、あの世とこの世の狭間にいた者たちも、かつてこの世界にともにありながら覆い隠されていたものたちも、全てではありませんがこの世界への浸透を始めています。それが世界の本来の【法】なのですから……この【箱舟】を出航させるにはまだまだ遠いですけれど、世界の終わりにはまだまだ遥かに多くの覆い隠されている真実を白日の下にさらさなければなりませんが……都合が悪いと隠したり、歴史の中で見失ってしまっていった真実の法が、ちょっとだけ箱舟に返還されただけのことですよ」
「言っていることが頭の狂ったそれのようで面白いが、わかりやすく説明をしてもらえるならばそれは大いに結構で助かる」
そういいながら、彼が返答を返さないことにはもう慣れていた。実際、彼の口ぶりに、私は危機感と、何か得体の知れない恐ろしさを覚えていたのかもしれない。確かに、いつだったか、私は彼から似たような話を聞いたような覚えがある。もしかしたらそれは概視感なのかもしれない。
しかし、私はその奇妙な気持ちを振り払って手元にカップを引き寄せて暖かな湯気を立ち上らせるカップへと口をつけた。
「海路が厳しいとなると、実際、一昨年にフィンディアが解放されていたのは何よりだったな。おかげでゼクスセクスからの支援は続くし、海路のみに頼らずとも交易を行うことができる。もともとが危険な街道の旅になれた者たちにとって、獣の発情期もさほど影響があるわけではないだろうからな」
ほっと一息をつき、そして思う。
世界の変化。確かに徐々にではあるが眷属種や貴族種、竜種たちの姿を見ることが多くなってきたと言えなくはない。しかし、それでも妖魔種と戦争の日々を過ごす者たちにとって世界の法則の変化はまったく予期しない天変地異のようなものだったのではないだろうか。
人類種にとっても……もちろん妖魔種にとっても。
記事:ウェイト=オン=サンク